昭和49年03月15日 朝の御理解
御理解 第66節
「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出て来ておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」
この自然に恵まれて、自然に恵まれながら一生を終わる。そう云う生き方を私は今日は、この御理解の中から感じさせて頂ます。六十六節という、是は六プラスの六と書いてある。六と言う事は、此処ではお徳と云う風に頂きます。ね。禄をはむというあの禄。元禄の禄と言う字に、こうもじって頂きますと、御徳と言う事になる。それが又いやが上にも、御徳を受けた上にも受けると言う意味だと思うんです。
ですからそう言う意味において、この六十六節を頂きますとです。人間は勝手なものでという、だから勝手ではない生き方。言うならばわが身勝手の行き方ではない生き方。ね。所謂天地自然に生かされて、そして自然の恵みの中に一生をまた終わって行くと言う生き方。日柄も何にも言わずにとか。日柄が良いの悪いのと言うてと言う事は、所謂身勝手な生き方と云う意味の事を教えて居られるんだと思うですね。人間は勝手なもので、途中ばかりをとこう、身勝手な生き方ね。
其処でほんなら、身勝手ではない生き方と言う事はどう言う事かと。ね。それで今朝色々頂いた中に、あのテレビで久留米にあの、だいしんというあの呉服屋さんが出来てるそうですね。よっぽど大きな呉服屋さんらしい。ひらがなでだいしんと書いてある、あのだいしん任せで大安心という、所謂キャッチフレーズですね。それをテレビで言っていますね。と言う事を頂くんです。ですからだいしん任せにしておれば大安心と言う事は、だいしんと言う事は大自然という、天地の親神様と言う意味に私は頂いた。
だいしん大神と書いてだいしんと読みます。呉服屋さんのは、だいしんとひらがなで書いてありますよね。だいしん任せで大安心。所謂天地自然の様に、恵まれながらの一生と言う事が確信される。此の生き方で行けば安心と云う生き方。それは身勝手な生き方ではなくてです、ね。神様に純粋な云うならば神様任せです、ね。だいしん任せで大安心。それで私が常日頃言うておる、神様任せは親先生任せと言う様な意味の事を申しますね。船は帆任せ風任せと。
と言う様な意味よりか、もっともっと深い広い意味合いにおいてのだいしん任せですよね。大神様任せと云うのは、今日は私がいやが上にも、徳を受けた上にも徳を受けて行けれる生き方なんです。ね。それは身勝手を言わない、身勝手をしない生き方なんです。ね。もう一から十まで神様が右向けと仰っりゃ、「はい」左向けと仰っりゃ、「はい」。もう何でもない様な事柄でもそうなんです。
ですから本当云うと、神様と直結したですかね。神様が何時もお指図を下さる様なおかげを頂かなければ出来んのですけれども、ほんならそれがそう言う風に皆んな神様から、いちいちそう云うお指図を受けると言った様な事は出来ませんから、私は此処ん所を一つ、一番それに近い生き方というのは、どう言う事だろうかと言う風に研究する、ね。研修して行かなければならないと思うんです。
昨日ある方が熱心に、お母さん信心が出来てます。毎日参って来る。所が子供やら主人やらが、家族の者が着いて来ない本当に残念だ。というお取次ぎをなさったら、私が頂いたのは、実際に御神願に頂いたのは、灯台記というお芝居があります。人間が自分自身が灯台の替わりになってね。頭にローソクを立ててね。もうローソクのその、こう流れるでしょう、それが顔にも頭にもこう掛かって、大変なその苦しみをするというお芝居なんですよ。灯台の記、海と書いてと灯台ですよ。それを頂いた。
どう言う事だろうかと思うて又、その事をお願いさせて貰よったら、灯台の台と言う字ね。是は、ムを書いて口と書いてある。カタカナのムを書いて、漢字の口と言う字を書いてある。灯台ね。ですから私はその方に申しました。「あのねお母さん、あなたが一生懸命信心しとりゃね、ちゃんと家族も皆んな着いて来る様になりますよ」と。「もう言うちゃならん」そこで、言うておると不自然になります。
言うならば、お母さんがあげん言うけん、ほんなら強引に言うたら、強引に着いて来る事になります。なるほど、それでおかげ受ける事もあります。けれども、これはね、今日の、だから、今日の御理解はなんて言うかね。もう徳の上にも徳を受けて行こうと言う様な話ですから、大変やっぱちっと難しかです。ね。子供達に言うて聞かせて、ね。そのま雄弁に、すとははー成程と思うて子供達が着いて来る。そう言う様な着いて来方ではいけないんだと言う事です。
それはもう其処に、既に不自然になってるです。もう何処迄も自然に即応して行く生き方でなければいけない。ね。だから強引に言うと、返って反発をすると言った様な事もある訳です。だからちょっと、何時もの御理解とは全然違った角度からね、今日はまあ聞いて頂いてるんです。もう言うちゃならん。子供が参らん嫁ごが参らんと言わんでも、ね。都合良か時に、ね。
それがね、言うてすうっと入って行きゃ、問題ないんだけれども自然に。けどもお母さんがあげん言いなさるけんで、一遍じゃあ参らじゃこてとち、言うごたる風で参って来て、ほんなら参って来よったんじゃ、不自然になってね。もう先の方で大変、大きな間違いになる様な元になる事実があるです。もう自然に即応するというか、自然に任せると言う事はね、言うちゃならんです。ね。けれども矢張り、子供達が信心が無いと、矢張りそこに感じます。
ね。信心をしてくれとくとと思います。其処で言わば、言うちゃならん。無口である。所謂、自分の信心の土台にそれをして行かにゃんけん少しは辛い。ね。だからもう何時か信心しよら、いつか解ってくれるだろう。いつか気着いてくれるじゃろうと言うのはその、消極的な事であってはならない。灯台記じゃないですけどもね。自分の為にローソクを立てて、ローソクのあの流れたのが顔にかかっても、それを辛抱すると言う位なんですから。そういう消極的なものであってはならない。ね。
目の当たりに、自分の子供達が不幸せになって行くのを見る親がです。そんな事ではいけんから、金光様の信心しなさいと言うて、強引に引っ張ってくるのではなくてね。それがいけないのじゃないですよ。けども今日は所謂、徳の上に徳を受けると言う様な話ですから、そこんところを、ようく皆さん聞き分けしないといけません。ね。そう言う例えば、状態の中にあるならばです。その子供の為にです。
自分がいよいよ修行さして頂く。いつか着いてくるだろうと言った夢の様な事ではいけん。ね。末長先生がね。それこそブラジル辺りまででも、一つ雄飛する。言うならば布教したい。もうそれこそ夢は膨らむばかりである。まだ見ぬその新しい天地。しかもその金光様のこの字も無い様なところ。ね。それはそう思うただけでも、胸がわくわくする様な、矢張りその思いがあると同時に、夢が涌いて来る。
けれどもねそう言う夢では詰らんのだ。ね。それこそ金光様のご信心は、夢にも思わなかった様なと言うおかげでなからなければ、本当のおかげじゃないのだから、夢は捨てて行け。夢は捨てなきゃいけない。もう自分自身を見るだけなんだ。自分自身の足元を見るだけなんだ。言うなら言うな、語るなと言う事である。自分自身が真実、助かる事だけを考えたら良いのだ。ね。
所謂、子供ね。家族の者が信心をしないと。いやいつかはこうしてお参りしよりゃ着いて来るじゃろと言った様な、夢の様な事ではいけん。ね。その子供達の為に、言わずに語らずに、ね。本気で修行させて貰うと言う事。自分の信心の土台になると。なら修行すると言う事は、どう言う事かと言うと、ね。様々な修行の在り方は、日参をするとか水を掛かるとか、断食をするとかもありましょう。ね。
それはまあ其れぞれの修行をさせて貰わなければなりませんのですけれども、ね。そのなら、家族なら家族の信心の無い家族の為にです、ね。愈々自分自身がもっと改まり、もっと研かせて貰うて自分自身がより、愈々助かる所の信心をしなければいけないと言うのである。ね。こうして信心毎日お参りしよるけん。何時かは着いて来るじゃろ。何時かは解って、神様が解らせて下さるじゃろ。成程解らせて下さるおかげも頂けるけれども、そう言う夢の様な事ではいけないと言う事、今日の御理解では。
その子供達の、ほんなら家族の者、信心の無い者の為にです。自分が灯台記になった気持ちで、一つ修行をせろと言う事なんですね。自分は熱い思いをしながらでもです。周囲を明るくする様なおかげを頂く為には、自分が研かなければ、自分が改まって行かなければならない。夢じゃないでしょうがね。私はこの辺の所を安易に、只考えておるだけではいけないと思うですね。いつかこうしていりゃ着いてくる。なるほどいつか着いて来るかも知れません。ま着いて来るでしょうね。信心たぁだしよればね。けども、
今日のはあの言うなら積極的なです。無口と言う事は言わないと言う事。自分の信心の土台と言う事、無口は自分の信心の土台にするのだそれを。信心の土台にする程しの事だからほんならちっとそっとの信心じゃいかん。ね。本気でその意のままにならない事を、私が至りませんから私に力が無いからとして至らぬ所を至る様にして行く。足らん所は足る様に力を受けて行く修行をすると言う事なんだ。是も昨日ある人のお届けをさせて頂いた。そしたらあの夏萩ですね。あの萩と言うありましょう。
夏萩が家の庭にこう一杯こうしこるあの植物です。そすとあれが秋ともなれば冬ともなると赤うなって散ってしまいますね。枯れた様になってしまいます言うあの萩のお知らせやらは、淋しい事になると言うお知らせです。けれども夏の間は青々として素晴らしいですねそしたらね。その萩の一枝をすうっと私の目の前に出して見せて下さったんです。そらまあだ夏萩ですから生き生きとした青々とした、ね。けれども是はまた何ヶ月かしよら、必ず淋しい事になる、秋になると言うお知らせです。ね。
言うなら、しゃんとせんかと言うて神様が、お知らせを下さっておる。夏萩と言うのは、私はそう思うた。あいたこらこんなら、しゃんとせんと行かんぞ。所謂、今は何でも無いごとある夏萩ですから。ね。けども是が二ヶ月か、三ヶ月かしよると、黄ぃなく成ってしもうてから、散ってしまってから枯れた様になってしまう。そう言う淋しい事になったんではないから、是は今の内に切りとっとかにゃいかん。
今こう言うお気付けを頂いておる、今こそ是を切り取っておかなければいけない。ね。そう言うお知らせを頂いた。私達がね本当に、神様任せ、ね。大神任せで大安心と言う様な、ね。言うならば大変な信心はです。もうそれこそ本当言うたら、厳密に言うたら、神様から一々お指図を頂いて、さあ右に行け、左に行けと言われりゃ、言われるままに動いて行くと言う様な生き方が、いよいよ親神様任せであろう、それが大安心がおかげ頂かれると思うんですけども。
中々そう言う訳には私共はいけません。ね。そこでその神様任せの、生き方と言う様な生き方のなかを、例えば言葉で言うてからでも、言うてからどん導くくらいな事ではいけないと、言う意味の事を頂きましたね。自然に任せてほんなら任せといて、腕こまねいて、任せてるのではなくて、灯台記の気持ちになって一つそれを縋って行く、願って行くと言ういわゆる、自然に即応した願いなんだ、は。ね。
そんなら私共が神様がですね。一々言葉を神様から掛けては頂かれんにしても、いろんな問題が起きて来る前にはね。それは丁度雨が降る前には曇って来るとかね。夏であるならば、雨が降る前には何とはなし蒸し暑くなって来るとかと。ちゃんともういきなりに雨が降ると言う事は絶対無い。私共の自然と此の大自然。天地の親神様を大自然と言うなら、私共を小自然ね。大自然と小自然の係わり合いの上においてですね。
さあお前の家に雨が降るぞと言う時に、一遍にすうっと雨を降らせなさる様な事は無い。その前にはもう何回も何回も、言うならばほらしゃんとしないか、しゃんとしないかとお気付け下さるのです。それを迂闊にしておると、雨が降って来る訳です。ね。いや降って来るのは良いけれど、濡れなければならんのです。ね。だから降って来ても濡れんで済む様なおかげを頂かせようとする神様の、そう言う働きがある時にです。
私共はね。それを言うならば、夏萩を頂いた時には、もうはっと思うたら、それはもう、ちゃんと切り取っとくと言うだけの信心をして行かなければいけない。次にはあの、五徳を頂いたんです。五徳と言うのは、あの今使いませんけどね、火鉢の中に、こうやって差し込むやつ。こう茶だしを掛けるとに、ね。こう三本足ですかね、あれはの、こう火鉢の中に差し込むのがあるでしょう。あんた達は知らんかもしれん。あれを五徳と言う。五つの徳と書いてある。ね。
是等はもう五つの徳と言うならもう、完璧な徳と言う事だ。まあ拾得と仏教では申しますね。五つの徳ね。言うならば健康の徳ね。物の徳お金の徳、人の徳ね。神徳、神様の徳。この五つが足ろうたら、人間はもう所謂大安心である。ね。それにはです例えばほんなら、あの五徳と言う物は火のある所へ、こうやって差し込まれるのですから、そりゃ随分熱い思いをするけれども、ね。熱い思いをする様な時であっても、それを言うならばね。じーっと辛抱すると言う事である。ね。
それこそ色も変えんで、その辛抱すると言った様な者。そう言うところは皆さん、あの辛抱と言う事に付いては、ね。有り難く辛抱の出来れる道を、教祖はちゃんと教えておられますもんね。ほらもうそんな熱い思い、冷たい思いをする時であっても、けれども有り難いと言う道を教えておられるでしょうが。ね。だから大して難しいこっじゃない。そういう言うなら信心、ね。大神任せで大安心。それから灯台記の灯台。ム口それから夏萩。それから五徳。ね。
そう言う私は、内容を持って来る時にです、ね。一番自然の働きに逆らわない。自然の働きに即応して行けれる、いわば信心と言う事が言えると思うです。ね。そう言う神様に任せると言う事はね。そう言ういうなら厳しい内容があるです。なからなければ駄目です。只自分の都合の良い事とか、自分では分らん時だけご真意を伺うて、神様任せになっておると言った様なものとは、だためが違う。いうなら大安心のおかげを頂くと言う程しの事。言うなら、徳の上に又徳を重ねて頂くと言う程しの事。ね。
生まれる時には、言わば日柄も何にも言わずに出て来ておりながら、途中だけ日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時にはね。もうそれこそ日柄も方位も言わずに死んでいぬると言う事は、どう言う事かと言うとね。最後が悪いという意味なんです。ね。途中で日柄方位と言う事は、身勝手な生き方という意味なんです。だから生まれた時と同じような、ね。自然に生まれて、そして自然に育っていかにゃならん。そして、自然に消えるように亡くなって行けると言う事。自然に帰って行くと言う事。
そういう言うならばね。スムーズなというかすんなりとした、その生き方と言う物が、身に着いて来る所にです。所謂大神任せで大安心というおかげが頂けるのですね。まあその大安心のおかげの頂けれる、その内容としてですね。私はま、幾つかの、私がお知らせを頂いた事を聞いて頂いた。五徳とか夏萩とかね。灯台の台という字とか。だからそういう信心を、私共が本当に稽古させて頂くという事ね。
それが身勝手ではない生き方であると言う風に、今日は聞いて頂いたね。自分勝手じゃないね。だからもう何というですか、矢張り爪が伸びたら、やっぱりそれをつむのが自然ですね。自然爪が伸んだら、伸んだままこうするという事が自然じゃない。爪が伸んで言うなら御用がし難うなったら、それを切るのが自然です。それを例えば、厳しい事で言うならばです。そんなら萩の、夏萩のお知らせは、そう言う意味も含まれてありますね。お互いね心を神様に、それも自然の働きにです。
その自然な働き其の物が、勿論神様の働きなのですから。その自然の働きに一々ね。受け答えが出来る位な、敏感な心を頂きたいですね。垢に汚れ果てておるとね。それが鈍感になってから、ね。お気付けを頂いておっても感じません。ね。それを感じ取らせて頂いたなら、それを只良か良かで放からかさずに、もうその場で摘んでしまう程しの、私はしゃんとした信心が出来なければいけないと思うですね。
今日はね。こういう信心に取り組むと言う事は、是はもう言うならば苦労と、ね。ま今日のは、言うならば小売で差し上げようとも、卸値で差し上げようと言う様な御理解です。ね。徳を受ける。徳を受けた上に、また徳を受けて行こうと言う様な生き方。言うなら是も仏教の言葉ですけれども、大安心と言う様なおかげの頂けれる、言うならば生き方を、今日は聞いて頂いた訳ですね。
どうぞ。